タイトル:風のように -立原道造
著 者:小山榮雅
本体価格:1,800円+税
四六判/上製/カバー装
刊行年:2004.11装丁:梶山俊夫
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タイトル:風のように -立原道造
著 者:小山榮雅
本体価格:1,800円+税
四六判/上製/カバー装
刊行年:2004.11著 者:小山榮雅
本体価格1,800円+税
体裁:四六判/上製/カバー装
刊行年:2004.07.12
ISBN4-931117-83-X
装丁:梶山俊夫
著 者:小山榮雅
本体価格1,800円+税
四六判/上製/カバー装
刊行年:2003.12
ISBN4-931117-80-5
装丁:梶山俊夫
幕末には「人斬り」が、あたかも時代の要請であるかのように流行した。
歴史的に見て、幕末ほど、テロリズムによる暗殺事件が頻発した時代は、ない。
万延元年三月の「桜田門外の変」以降、短期間ではあつたが、江戸でも、幾つかの暗殺事件があり、港区三田のあたりで起った「暗殺」は時代の移行に、少なからぬ影響を与えた。
秋山隆賢は、散歩がてら、「高輪」「麻布」の暗殺現場を歩き、「暗殺」の無意味さと、それにかかわる、「開国」か「鎖国」かという偏執的な、無節操な擾乱を考える……
タイトル:小説にぎやかな散歩
著 者:小山榮雅本体価格1,700円+税
四六判/上製/カバー装
刊行年:2001.07.09
ISBN 4-931117-47-3
装丁:梶山俊夫太宰治、島崎藤村、梶井基次郎、永井荷風は未だに多くのファンを魅了する作家たちである。
——今は当時の面影をまったく失ってしまった麻布界隈を逍遥し、これら作家たちの生の軌跡を感受。
序景「散歩日和に」
第一景「芝済生会病院」
第二景「麻布植木坂」
第三景「麻布市兵衛町」
終景「散歩の終りに」の五部よりなる
太宰・島崎・梶井・永井らが生きた軌跡を感受しながら、麻布界隈を逍遥する「あとがき」より抜粋
私の家からおよそ二十分程歩いたところに、以前、「麻布市兵衛町」と言われた町があった。いまは、アークヒルズと呼ばれ、再開発が盛んに行われている地域の一画であり、そこには、大正から昭和にかけて、小説家の永井荷風が住み、その二階建ての建物は、「偏奇館」として知られていた。
建物は、残念ながら、昭和二十年(一九四五)三月十日の「東京大空襲」で灰燼に帰してしまったが、そのあとには、港区の教育委員会が建てた「偏奇館跡」の標示板が残っていて、私は、散歩をするたびに、機会があると、そこへ立ち寄って、独身の荷風の生活ぶりを、それとなく脳裡にふかく思い描き、荷風の、人生の孤愁を一人で背負って行こうとした、若きころ、欧米で納めた個人主義の内実へ、考えをめぐらせながら、一刻を過ごすのを、ささやかで、やや偏執的な、他愛のない風雅として来たのである。
先日、正確には四月二十七日の木曜日の午後であったが、そちらの方角へ、散歩がてらに用事を済ますことがあって、いつものように、私は「麻布市兵衛町」(現、港区六本木一丁目)へ向かい、「偏奇館跡」を訪ねたのであった。しかし、いつの間にか標札は取り払われて、そこら一帯は、いま、大規模な開発の真っ最中であることを、目撃してしまったのである。
その光景をまのあたりにして、私の心は、言いようもなく痛んだのだったが、所詮は、こういうふうに、「都市」というものは、無残な開発によって、その「歴史」の原景とでも言うべきものは、いとも簡単に、ふさがれて行ってしまうものなのだな、と痛恨の溜め息をつかざるを得なかった。
タイトル:短篇小説集光る雲
著 者:小山榮雅本体価格1,700円+税
四六判/上製/カバー装
刊行年:2000.07.01
ISBN 4-931117-55-4
装丁:梶山俊夫
寂寥とは、魂の孤独な捻転と、その孤独によって癒される、
存在の自立への切ない痛みが発する、ただならぬ愁意のことである。
深閑とした魂の、安らかな悲調にほかならぬ……
目 次
風船
石蕗の花——「都々一坊扇歌」残像
光る雲——「画工・小林清親」追懐
内容
還暦の近づいた秋山隆賢は、在る日、明治の画工・小林清親を研究する若き女性記者とともに東京の街を歩く。
江戸から明治にかけての東京に想いを馳せ、その残像をたどった標題作ほか、激変の江戸末期を駆け抜けた都々逸の名手・都々一坊扇歌の反骨の生き様を描いた『石蕗の花』と『風船』の二篇をおさめる
本文より抜粋:石蕗の花——「都々一坊扇歌」残像
扇歌は、江戸の末の芸人のなかでも、とびぬけた才能と美声を持った男であった、と言えるが、十歳で父親と死別し、他家へ養子に出されたりした、前途にあまり光りのない、郷里での少年時代の不遇な生活は、かれに、運命は、自力で切り開くものであるという、人生の道筋を気づかせた。
それが十八歳の福次郎(扇歌)に、「江戸への出立」を決意させたのであったが、かれは、幸運にも、
花のお江戸で、みずからの才能を、充分に発揮する場所に恵まれた。
それは、かれの才気と美声によるものとは言え、乞食坊主で一生を終えるかも知れない境遇にあって、
いわば、並々ならぬ努力の果てに手にした、
栄光であった。
その行程には、「いのちがけ」の、武士権力に反発する意力が、熱くたぎっていた。
江戸時代の「武士」を頂点とする身分制度は、想像を絶するほどの強大な拘束力を持っていた。
「都々逸」なぞをうなる人間は、「座頭」などとひとくくりにされ、「賎民」として、最下層の、低い身分におかれていたのである。
そうした、公然とした身分差別に支配された江戸時代の封建組織に身を縛られ、なおも、時勢を管理する武家社会の構造の矛盾を、その根底から揶揄し、批判した扇歌の、人間の哀感に満ちた「都々逸」は、たしかに、民衆には、ほどよいカタルシスをもたらす雑芸であったとは言え、政治的には、つねに危機にさらされていた。
本文より抜粋:光る雲——「画工・小林清親」追懐
二丁目(現、中央区日本橋浜町二丁目)に住んでいた。
火事と知った清親は、写生帖を片手に家を飛び出した。そして、火の手を追って歩きつづけ、夢中になって、火事の焔を描きとめたのである。やっと火事が鎮まって、清親が自宅へ戻ったとき、家は焼えてしまっていて、跡形もなかった、と言われている。
火の美しさに魅せられて、どんどん遠くまで足を運んでしまった清親の、美への執着が手にとるようにわかる、エピソードであると言えなくもないが、清親は、これによって、「浜町より写す両国大火」や、「両国大火浅草橋」や、「久松町ニ而見ル出火」などの作品を残した。
金子光晴は、いま杉田幸子が住んでいる、「橋場」のあたりの、その頃の様子も書きとどめている。
「橋場あたりは、細路地をぬけたあき地に、見あげるような大きな陶窯が築いてあって、すり鉢や、ゆきひらや、泥をかためたような粗悪な陶器をつくっていた。出来損いや、こわれものが散らばっているどろ道を、ひろい歩いて馬車通りから、浅草公園のうらかたへ出た。どぶが多くて、細い道は、ぷんとどぶくさい臭いがした」
こうした文章に接して、秋山は、むかしの「橋場」のあたりの風景を、それとなく想像しながら、その感情は、なぜか、杉田幸子の清々しい容姿へと、思いもよらず結びつ
「あとがき」より抜粋
私の家からおよそ二十分程歩いたところに、以前、「麻布市兵衛町」と言われた町があった。いまは、アークヒルズと呼ばれ、再開発が盛んに行われている地域の一画であり、そこには、大正から昭和にかけて、小説家の永井荷風が住み、その二階建ての建物は、「偏奇館」として知られていた。
建物は、残念ながら、昭和二十年(一九四五)三月十日の「東京大空襲」で灰燼に帰してしまったが、そのあとには、港区の教育委員会が建てた「偏奇館跡」の標示板が残っていて、私は、散歩をするたびに、機会があると、そこへ立ち寄って、独身の荷風の生活ぶりを、それとなく脳裡にふかく思い描き、荷風の、人生の孤愁を一人で背負って行こうとした、若きころ、欧米で納めた個人主義の内実へ、考えをめぐらせながら、一刻を過ごすのを、ささやかで、やや偏執的な、他愛のない風雅として来たのである。
先日、正確には四月二十七日の木曜日の午後であったが、そちらの方角へ、散歩がてらに用事を済ますことがあって、いつものように、私は「麻布市兵衛町」(現、港区六本木一丁目)へ向かい、「偏奇館跡」を訪ねたのであった。しかし、いつの間にか標札は取り払われて、そこら一帯は、いま、大規模な開発の真っ最中であることを、目撃してしまったのである。
その光景をまのあたりにして、私の心は、言いようもなく痛んだのだったが、所詮は、こういうふうに、「都市」というものは、無残な開発によって、その「歴史」の原景とでも言うべきものは、いとも簡単に、ふさがれて行ってしまうものなのだな、と痛恨の溜め息をつかざるを得なかった。